2000年の台本


序文

誓約の宗教的背景

10年に一度、オーバーアマガウの男女と子どもたちは特別なドラマ-イエスの受難-を演じます。祖先がペストが大流行した1633年に誓った誓約を、彼らは果たし続けています。

祖先の多くが亡くなってしまいました。黒死病が村を覆い尽くさないように望みましたが、だめでした。将来にわたってこの種の災難を寄せつけないためにできることはすべて行いたいと願いました。彼らの祖先は決心しました。「私たちの主イエス・キリストの受難と死の物語を語らせて下さい。」その物語は私たちに希望を与え、同時に悟らせてくれるでしょう-主の道を歩め!あなたがそうすれば、災難や死をもたらす状況を取り除くためにできることをすべて行うでしょう。その当時戦争が何年も続き、疫病がそのあとを追いました。

このドラマは「イエスがあなた達のよりどころであなた達に力を与えますように」という緊急のメッセージで私たちの心に衝撃を与えるでしょう。彼は永遠の主である神が世の始めから人の命を司っている道を歩みました。彼は永遠の主である神と共にいました。彼が吸ったすべての息でもって、彼は父なる神の意志に従うことを求めました。このように彼は永遠の主である神について病人に語り、彼らはその手足を癒されました。彼は永遠の主である神について貧しい人々に語り、彼らは悟りをえました。私たちもひとつの未来をもっています。彼は永遠の主である神について苦しんでいる人々に語り、彼らの心は軽くなりました。彼らは希望を見いだしました。すべてのことが今までより悪いときでさえも、放り出されてしまうことはありません。永遠の主である父なる神はすぐそばにいます。イエスが神と私たちの取りなし手となって下さることをこの人たちは感じました。

イエスに反抗した人は時代を通して存在します。自分自身を「キリスト教徒」と呼ぶ人の中にさえ。そして多くの人はイエスから離れたり反対したりします。これがイエスの時代に起こったのは、律法すべてを正確に正しく行おうと長い間一生懸命になっていたためかもしてません。彼らは自分達が成し遂げたことが無視されていると思いました。イスラエルの信仰的伝統を引き継ぐことにおいてイエスが因習にとらわれない態度をとったため、彼らの目にはナザレ人イエスは伝統とその価値を軽視していると映りました。もし私たちが十分に特にイスラエルの信仰のために生け贄をささげていれば、私たちは声を与えられ法は実行される方法で解釈することが許される価値があると彼らは考えたでしょう。私たちは政治的秩序をコントロールするチャンスをもたなければなりません。そして他国が占領して私たちの事柄を規制することを許してはなりません。高位の聖職者や少数の宗教的指導者、政治的指導者(彼らは実際悪者ではありませんでした)が、イエスは死ななければならないと確信するように至ったとき、悲劇と誤解が生じていたかもしてません。イエスをメシアだと期待することは当時彼らを支 配していたローマを激怒させ自分達が被害を被ると彼らは思っていました。「すべての人が苦しむよりは一人の人が死ぬ方がよい」と高位の聖職者が言ったのは、その責任感からだったかもしれません。

彼らはイエスが何を考えているのかを理解しませんでした。イエスは人々が超越的なものに心を向けてほしいと願いました。イエス以前の預言者たちが話していたように、イエスは「私たちは豊かな命を与えられている」ということを人々が理解できるように神の国を人々の心の中においてほしいと願いました。イエスは人々に「あなた達は栄光と祝福を与えられている。政治的に経済的に不十分な状態にあっても、あなた達は満ちあふれるほど豊かであることを知りなさい。私たちは永遠の父なる神に支えられているという直感的な確信をもつに至ったとき、そのようなすべての外的な問題は解決されるのです」と言いたかったのです。

イエスは父や母のように私たちのためにいます。すべての人は「どのような時でも、私は愛されており、私は守られており、私には人間としての尊厳をもっている。私が神から離れない限り、私はいかなる状況をも乗り越えることができる」ということを知ることが許されています。オーバーアマガウの人はペストのにおそわれたとき、こんなふうに考えたに違いありません。彼らはイエス・キリストをよく聞き、その福音を心に刻みました。それ故彼らはイエスの受難を演じ、また代々演じ続けることを決めました。彼らは感謝の心をもってこの劇を演じたのです。

受難劇-ユダヤ教徒の非難?我々自身を映す鏡?

人間の本質を写すものとして、この受難劇はひとつの悲しいドラマです。私たちは皆自分自身を見つめ、自分自身の利益というレンズを通して世界を見ようとします。ひとつのグループは別のグループに対する優位性をもちたがります。すべての事柄は、宗教的な慣習や禁忌でさえ、特別なグループの利益のために再解釈されようとし続けています。福音の主旨でさえ曲解されることがあります。あるひとつのグループの利益のためにすべてのことが使用され悪用されることがあります。この場合、正しい人がシステムのギアの中で押しつぶされてしまうことがあります。しかし論争はより深くなっています。イエスの受難において、人間性の最も本質的なドラマにフォーカスを当てることが求められているのに、神の意志から乖離することや神の人への愛から乖離することという個人の、社会の、そして教会の歴史を通して繰り返されてきた論争がなされています。この乖離は何度も何度も私たちに襲いかかっています。特にドイツ人として私たちはドラマの悲哀を認めるのに十分な理由をもっています。なぜなら前の世紀に私たちの国は国境を越えた恐怖をもたらした源だったからです。受難の歴史の登場人 物に審判を下せる人は誰もいません。というのはカイアファやピラト、ユダはすべての人の内にひそんでいるからです。

このように受難劇は出演者にとっても観客にとっても現在を映す鏡のようなものです。特に2000年の上演においては、普遍的な人間の行動パターンを重視して、すべての歴史的なそしてその結果として異国ふうの要素をできるだけ少なくしました。たとえばその時イエスに忠実だった人、女性たち、議員のニコデモは単なる過去の人物ではなく、受難によって救われた今日の私たちと同じです。同様にイエスに敵対した人々は私たちかもしれません。実際にユダ、ペトロ、カイアファといった人たちは高貴な態度では演じていません。陰謀が不正な議員や扇動者の弁舌によって動かされてしまった人に関係しているときは、言及は普遍的なのです。特別な共同体に属してしまうことは偶然だからです。聴衆は皆、不正な審判者であったり絶叫している暴徒の一部であったりする可能性があります。

以前の受難劇では白か黒か-つまりイエスの敵か味方か-というコントラストを描写していましたが、これではイエスの時代のユダヤ人全体に対する責任の非難のみならず、現在のユダヤ人への嫌悪、侮蔑、言いがかりを生んでしまいます。時には聴衆の中にはある受難劇を見て隣人のユダヤ人を攻撃することがイエスの死にたいする復讐になると考える単純な人もいました。たとえそのような卑劣な残虐行為がオーバーアマガウ受難劇の歴史の一部でないとしても、この受難劇がユダヤ人根絶という恐ろしい報いを実際にもたらした土壌を耕すことに寄与してきたことを認めざるをえません。さらにそして意義深いことに、イエスはユダヤ人であったということをキリスト教徒は忘れました。母マリア、マグダラのマリア、十二使徒、そして初代教会の聖徒たちもユダヤ人であったのです。十字架刑はローマの死刑形式であったこと、さらに死刑を宣告したのはユダヤ人を軽蔑し嫌っていたピラトであったことを知らないキリスト教徒が多くいます。

受難劇は特定の個人や集団に罪を見つけるものではなく、特定の民族に罪を割り当てるものでもありません。福音をざっと見ただけでも、どんな技法を使っても解きほぐすことのできない罪のネットワーク-政治的、宗教的、哲学的な動機の絡み合ったもの-が見えてきます。この問題は世俗的歴史的な感覚で判断を下すべきではありません。イエスは言われました。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。(ルカによる福音書第6章47節)」むしろ救いの歴史における驚きの感覚を呼び起こすことが受難劇の目的なのです。ローマ人への手紙第11章32節にこうあります。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」

ですから2000年の上演にあたっては詳細な歴史的事実を示すのではなく、ワグナー・ラビ※1が言ったように受難劇の実存的な宗教的テーマを強調するべきでしょう。今回のテキスト、イメージ、そして劇そのものにおいて、イエスがユダヤの信仰とユダヤの伝統の中に基盤をおいていることからイエスを理解してみたいと思います。白か黒かの固定概念や反ユダヤの誤解に収斂されてしまうことを防ぐために、今回の上演では、最高法院の議員たちは公平な試みを望んでいる地方議員たちによって異議を唱えられ、イエスに従う人たちはピラトの前に押し寄せた群衆に立ち向かいます。さらにイスラエルの歴史的信仰、特にモーセに対する多くの参照をもった活人劇の新しい選択は、ユダヤ教とキリスト教の密接な関連を示そうとするものであり、さらに自分がいにしえの根から生まれた若枝であることを知ることによって感謝の念を抱いてもらおうとするものです。

この新しい制作をキリスト教徒とユダヤ教との対話の結果にするために、反中傷連盟(ADL)やアメリカユダヤ人委員会(AJC)のスポークスマンはユダヤ教との代表者としてオーバーアマガウに招待されてきました。たとえ関係団体がすべての事柄に同意できなくても、「有意義な改善が1980年の上演から1990年の上演に行われ、2000年の上演ではそれがさらに進んだ」(ADLクレニッキ・ラビ)のです。AJCのアラン・ミトルマンは「初期のものからはきわめて大きな改善だ。反ユダヤ主義を最小化するために努力を認める」と言っています。AJCのルディン・ラビは受難劇2000が「ユダヤ人とユダヤ教の新しいそしてポジティブな理解を表すだろう」と書いています。

十字架-つまづきの元?希望の源?

イエスはユダヤ人でした。そしてイエスは地上のすべての民が祝福を受けるように永遠の父なる神がご自身の民を選ばれたといういにしえの約束に対する声を再びご自身の民の中で上げられたのです。イエスは私たちに神の恵みの源を示して下さいました。イエスは十字架において神の恵みと祝福をもたらして下さいました。イエスは激しい苦しみの中で死にました。しかし見よ!イエスは生きておられます。これがイエスの受難と死を演じる出演者たちの信仰です。そして私たち聴衆のためにそう演じるのです。私たちが残酷な苦痛や不運を目撃するときにおいて、あるいは大惨事の歴史が終わりを告げるように思えないときにおいても私たちは悲観主義を甘受する必要はないということを、この劇によって理解できるようにと出演者たちは願っています。

イエスの受難は希望をもたらしてくれます。死の悲しみではなく、命と喜びが残るのです。もちろんはじめは使徒たちとイエスに従っていた人たちは途方にくれ、深い悲しみの中にありました。彼らはイエスを神から使わされたメシアだと思っていました。彼らはイエスが自分の力を見せてくれることを確信していました。そしてイエスの苦しみを遠くから見ていました。「そいつをはりつけにしろ!」と敵が叫ぶのを聞いたとき彼らは憤慨しました。策謀に長けた政治家であるピラトは彼らの主を彼の政治的野心の犠牲にし、代わりにテロリストを釈放しました。彼らは十字架に乗せられたイエスを恐怖にかられながら遠くから見つめました。そして針のような言葉が彼らの心を突き刺しました。「十字架にかかった奴よ、呪われよ!」彼らはイエスを疑いはじめました。イエスは結局神の使いではなかったのだろうか?私たちは惑わされていたのだろうか?悲しくて、どうすることもできなくて、彼らは動くことさえできずにともに座り込みました。その時ニュースが伝えられたのです。イエスは生きている!女性たちがニュースを届けてくれたのです。はじめは信じられませんでしたが、だんだんと彼らは 理解できるようになりました。そしてイエスの霊に満たされてはじめて、彼らは再び行動し反応することができるようになったのです。今や彼らを止めることのできるものは何もありませんでした。彼らは知りました。永遠の父なる神が私たちを守るためにいて下さるのだから、命は死よりも強いことを。神はかつて紅海で海を開かれたようにまさに最後の時以外でも、子である私たちを救って下さることを。主は私たちのためにいまし、まさに最後の時でさえも私たちを救って下さることを。ひとは、苦痛や死、悪意や惨劇のゆえに絶望してはならないということを。永遠の父なる神はいつもイエスの中にそしてイエスを通して働いていることを。

2000年上演のそのほかの特徴

2000年の上演においてジョセフ・ダイセンベルガーによる台本は、ユダヤ人の中のユダヤ人であるイエスは法と預言書を全うしたいと望んでいたことを示すことができるように預言書的要素を強調するように改訂されました。彼はすべてを父なる神と結びつけることによってこれを成し遂げようとしました。命令は大きな不正を引き起こすことのできるものなので、人間は本来命令することを求められるべきではありません。イエスはご自分を通して神の真実性が世界に約束されご自身の聖霊が地上を新しくすることを信じている人々に希望を与えたかったのです。

オーバーアマガウの人々は2000年の上演に積極的に取り組んでいます。彼らは先祖の誓約をその本当の意味にできるだけ近い形で果たすことが自分達の義務であることを知っています。「贖いの劇」を定期的に演じることは、各世代の恐れや熱望が反映されなければならないということを意味します。オーバーアマガウの人々はこの劇は単なる「ノスタルジックな民話」になってしまってはならないと確信しています。この種の作品はかつて生活の豊かさから抜け出したかもしれませんが、今日それは聴衆を劇場への訪問者へ変えました。しかしながら同時に彼らは生活に深く根差した劇である「人々のための劇」としてこの劇の伝統を保ちたかったのです。この二つの精神的義務を負って、台本と制作はオットー・フーバーとクリスチャン・スタックルによって新しく改訂されました。2000年の上演は現代を生きる人々に対する「贖いの劇」として作られています。

さて2000年の上演の神学的要旨を簡単に言うと次の通りになります。受難劇は「贖いの劇」としての希望を伝えようとするものです。その中心は、人間の欠点や悪意や苦痛を無視したりイデオロギー的に説明したりしないヨハンの神学に密接しています。そのかわりに私たちはこれらの欠点などにもかかわらず「豊かさの中の生活」に対する希望を持ち続けようとしています。そうすることによって私たちは十字架にかかったお方を見上げそのお方から強さを引き出すことができるのです。

旧約聖書のテキストは以前よりもその重要性を増しています。イエスの働きはそれらの預言的な力の中に表されています。これはイエスは本当にユダヤ主義の中にあり人々への約束を果たそうとしたことを強調しています。

この受難劇全体としてのモットーはこれです。「信じていれば希望は決して消えることはない」「信じなければ、あなたがたは確かにされない(イザヤ書第7章9節)」さらにもうひとつ申し上げましょう。「しかしあなた方が信じるならば、あなた方は奇跡を目撃するでしょう」


訳者注

※1 ラビ:ユダヤ教の指導者


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(C)日本聖書協会
translated by TABATA, Hideyuki
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