オーバーアマガウ
キリスト受難劇の歴史


20世紀

1910

30. Spieljahr. Mit dem Anstieg auf 223 548 Besucher bei 56 Auffuhrungen erreicht das Spiel am Vorabend des 1. Welt-kriegs eine einzigartige Massenwirksamkeit. Die Besucher-struktur gleicht der von 1900.

Oberammergauer Kinder "spielen" Passion (Postkarte von 1910)

1922

第31回上演年。戦争の余波により受難劇は2年延期された。若い彫刻家のGeorg Johann Lang (1889-1968)がディレクターに選ばれた。
311,127人(うち外国人約10万人)という観客が押し寄せた。1930年受難劇の著名な観客としては、Rabindranath Tagore、Henry Fordそして後のローマ教皇ピオ12世のPapal Nunzio Eugenio Pacelliがいた。
著名な観客

1930

第32回上演年。観客数42万人。G.J. Lang(写真左)の新しい演出によってはじめて現代的演劇技術が使用された。すべての解釈上の手段は統一された芸術的コンセプトに従った。Georg J. Langと弟の建築家Raimund Langは歴史的な1890年の舞台を清らかで禁欲的で記念碑的な新しい舞台に変えた。観客席は5,200席になった。 G.J. Lang
G.J. Lang(左)

1934

第33回上演年。観客数44万人。300周年記念特別上演。入場料を格安にし、汽車の運賃を値下げした。新政府はポスターに「ドイツはあなたを呼んでいる」と印刷するよう要求し、この劇をイデオロギー的に「土地の奉献するパワー」に起源のある「田舎者の演劇」にしようとした。ヒトラーは選挙の直前に観劇することによってオーバーアマガウの人気を利用した。カトリック教会はオーバーアマガウにMissio canonicaの公式許可を与えた。Leo Weismantel (1885-1964)にテキストを改訂させようとする試みは、保守派からの抗議でつぶれた。 ヒトラー
ヒトラー

1950

第34回上演年。観客数48万人。1950年の受難劇はちょうど終結した国の大変動の恐怖に特徴づけられる。この劇は、戦後に戻ってきた多数の国際的観衆にその西洋キリスト教の伝統でもう一つのドイツを示す機会とされたようである。上演とともに「受難のしるしにおけるキリスト教芸術の1,000年」と題した展覧会が行われた。訪問者の中にはHeuss連邦大統領、Adenauer首相(下図)、Erhard Hochsterババリアン知事がいた。アイゼンハワー将軍(右写真)を含めた連合国代表者も受難劇を観賞した。当初33回の上演予定であったが、最終的に87回上演された。それにもかかわらず入場できなかった人が何千人もいた。 著名な観客

1970

第36回上演年。観客数約50万人。1930年の台本がほとんど変わらず使われた。この劇はアンチ・ユダヤ的だと主張するキリスト教徒とユダヤ教徒の両方から批判が起こった。Ettal大修道院長のJ. M. Hock博士はテクストに若干の訂正を行った。
Dedlerの受難音楽がオーバーアマガウ生まれのEugen Pabst博士によって1950年に書き直された。
Eugen Pabst博士
Eugen Pabst博士

1977

1975年に委員会はSchwaighoferにRosnerテキストのリハーサルをするよう依頼した。その芸術家はセッティング、マーク、コスチュームをデザインした。Alois Finkが脚本し、Wolfgang Fortnerが新曲を作った。1977年に8回の上演があり、マスコミや大衆からは大変評価がよかった。しかしながら住民投票では大多数が1980年用のRosnerのテキストを否定した。村議会はこの決定を取り消し、はじめは新しいテキストに賛成したが、新しく選出された村議会はWeiss-Daisenbergerのテキストを1980年に用いることを決議した。ユダヤ人組織はこの劇をボイコットした。最終的に53万人以上の観客がLangをほぼ踏襲したディレクターA. Preisinger (1912-1989)制作の劇に参加したとき、保守派勢力は自分の態度に確信を抱いた

1984

第38回上演年。350周年記念。観客数約48万人。ディレクターMaierの指導の下、いくつかの注意深い変更がテキストと舞台装置の両方に施された。初めて女性が受難劇委員会で選挙権を得た。しかし参加されるのを許された女性は35歳以下の未婚のオーバーアマガウ村民だけであった。
地獄の場面
1977年のRosnerのリハーサルでの地獄の場面

1990

第39回上演年。1984年に村議会で世代交代があった。しかし1990年のための結論はRosnerに反対、Daisenbergerに賛成であった。しかしその時今までで最も若いディレクターが選ばれた。27歳の彫刻家Christian Stucklであった。Rudolf Presch博士の指導の元でのテキスト委員会は準備中に反ユダヤ主義という非難を避けるために反中傷連盟から出されたいくつかの問題の解決に努力した。結婚した年輩の女性が参加できるかという問題が地方裁判所で肯定された。一方Stucklの制作についての議論は脚本の調和をとり、彼はかろうじて解雇を免れた。(観客総数48万人)

1997

1997年、カトリック教会との協定書が届けられた。MunichおよびFreising大司教管区の枢機卿が、制作と特にテキストに対する彼が任命した代表者の同意を条件として、受難劇の保護を引き受けた。
1997年にはまた、村議会はChristian Stucklに新しい制作の準備を依頼した。Stefan Hageneierがセッティングと衣装のデザインを、Markus Zwinkが音楽を、そしてOtto Huberがテキストを担当した。彼らの仕事はWetter枢機卿やLowenich司教によって任命された神学者Ludwig Modl教授ばかりでなく地方の聖職者や村議会に1997年から1998年にかけて何回も上演された。そしてその後満場一致で認められた。

2000

第40回上演年。伝統的あるいは現代的手法によってその使命を果たすための正しい形を見つけようとする努力が続けられた。このことのほとんどをオーバーアマガウは住民投票で決めた。第一に、RosnerとDaisenbergerのどちらが2000年の劇の基礎を作るかについては、1996年に後者に決定した。第二に、Stucklがディレクターとして残るかどうかについては、1997年に肯定的に決定した。第三に、保守派代表者のRudolf Zwink博士がディレクターにされるべきかどうかが決められた。第四に、受難劇場は伝統的なスタイルでいくかモダンな木のスタイルにするかについては、1997年に前者にすることになった。

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