オーバーアマガウ
キリスト受難劇の歴史


19世紀

1811

Durch Mongelas' Verbot 1801 konnte erst 1811 gespielt werden nach der Vorlage eines von dem Ettaler Pater Dr. Othmar Weis (1769-1843) neugeschaffenen Textes (Konzentration auf die Evangelien, Zentralidee der Versohnung Streichung allegorischer, mythologischer und legendenhafter Elemente, zeitgemasse Theologie, Prosa-Stil, Realismus, wortreiche, moralisierende Deutungen der Vorbilder, Bezugnahmen auf soziale Konflikte). Komposition der Musik durch den Oberammergauer Lehrer Rochus Dedler (1779-1822).
Othmar Weis
Othmar Weis(1769-1843)

1815

第20回上演年。ナポレオン戦争の終結感謝の特別上演。WeisによるテキストとRochus Dedlerによる音楽の大改訂が行われた。特に「エルサレム入場」の場面で商人と民衆の場面が拡充された。新しい舞台が.N. Unhoch (1762-1832)によって帝国様式で作られた。 Rochus Dedler
Rochus Dedler

1830

第22回上演年。Ludwig I世は以前のように墓地に舞台を作らないことを条件に上演を許可した。そのために1815年の劇は町の北西の草地にたてられた。その原案が今日の受難劇場の建物を決定した。5,000人の観客をその正面に収容することができた。1830年から1850年にかけてS. Boisseree, G. Gorres, I.F. Lentner, L. Staub, E. Devrient, M. Deutinger, J. Seppなどの人たちによってこの劇のロマン主義的見地が見いだされ、広く出版された。観客は約18,000人であった。 1820年の舞台
J.N. Unhoch (1762-1832)によって帝国様式に設計された1820年の舞台

1840

第23回上演年。35,000人が観劇した。この増加はとりわけ著名な参加者の熱心な記事に帰するところが多い。彼らはこの劇のロマン主義的見地を見いだし、そして広く宣伝した。Sulpice, Boisseree, Guido Gorres, Joseph Friedrich Lentner and Ludwig Staubなどである。 北西の新しい劇場
北西の新しい劇場

1850

A. Daisenberger(1799〜1883、1845年からオーバーアマガウの教区司祭)がディレクターになり、彼の師J.M. Sailerの教えでテキストに若干の変更を加えた。この変更は歴史と演劇の研究に基づき、豊かな大衆教育影響力を示している。選出された「受難劇委員会」が劇を催した。はじめて劇の報道が英語とフランス語で出版された。
1850年のキリスト役Tobias Flunger
1850年のキリスト役Tobias Flunger
現存する最古の受難劇の写真

1860

1856年、政府の要請とJ.N.Seppsによる1850年版に対する批評のため、Daisenbergerは新版を作った。彼はヨハネによる福音書を好み、写実性や高尚さ、理想化、政治的および心理的側面(例えばユダの性格)ではなくに受難のドラマを強調しようとした。一方、彼は自分の作品を古代の古典的な悲劇に基礎をおき、伝説の挿入やマリアとのイエスの出会いなどの十字架の道行きの留からの主題、以前の受難劇テキストからの歴史的引用、より感情的なアプローチ、言葉や単純なシンボル(生命の木としての十字架)の象徴的使用を通して、より大衆的な訴求を目指した。 Daisenberger
Daisenberger

1870

1866年 Daisenbergerは絵画的描写をするために古代叙情詩を用いたプロローグを書いた。しかしコミュニティは韻文での受難という彼の提案を拒否した。J.N. Seppsの韻文テキストを好んだのである。劇は戦争のために中止になり、1871年に継続させられた。 A. Daisenberger
A. Daisenberger (1795-1883)

1880

観客は増加した。ビスマルクの文化的闘争における教会の自己主張の兆候があった。
衣装はMunich Court Theatreで作られた。
マグダラのマリアと死刑執行人
左:イエスに油を塗ったマグダラのマリア
右:イエスの衣装をくじ引きで分けた死刑執行人

1890

C. Laufenschlagerの設計で舞台が作られた。ネオ・ルネッサンス様式で、座席の一部は屋根つきであった。
写実的で歴史的な大道具と衣装で中庭式劇場スタイルでの新しい演出がなされた。
新しい舞台
新しい舞台

1900

29. Spieljahr - 174 000 Zuschauer. Spielpragend der verinnerlichte Ausdruck Anton Langs, des Christus-Darstellers 1900?1922. Neu die gedeckte Zuschauerhalle mit 4200 Sitzplatzen, eine Eisengerustkonstruktion mit sechs hohen Bogen, nach vorne offen zur Freilichtbuhne. Und: ?Oberammergau sieht Gaste aus aller Welt; selbst aus China waren drei Herren einge-troffen.“ (Allgemeine Zeitung) Bezeichnend: Im Opferstock der Kirche finden sich Munzen
aus Agypten, Indien, Hongkong, Dollars aus USA, Mexiko, Brasilien, Bolivien und Sols aus Peru.

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